椀に宿る漆の色

 初夏から秋にかけて漆を掻き採ってきた鈴木健司は、仕事場を山から自宅に設けた工房に移す。再び夏が巡ってくるまで、塗師として刷毛を持って、漆器を制作するのだ。鈴木健司が手がける漆器は、木地固めから仕上げまで漆を何度も塗り重ねて完成させる技法。それだけに漆の質が最終的な品質を左右する技法でもある。しかし、漆掻き職人でもある鈴木健司にとってこの技法ほど彼に適したものはないだろう。
 自分が掻き採った漆から、それぞれの工程に適した漆を選択し、塗り重ねていく。実は全国各地の漆器の生産地で一般的に販売されている漆器の多くが、海外産の漆で仕上げられている。鈴木健司たち浄法寺の漆掻き職人が採る浄法寺漆は海外のそれに比べ、艶の美しさや堅牢さで秀でていると聞く。とくに近年では、浄法寺漆は日光東照宮をはじめとする国宝修復に用いられ、日本文化の継承に欠かせぬ素材として希少性を増している。おかげで引き合いも多くなり、供給が追いつかないのが浄法寺漆の現状だ。
 それでも鈴木健司にとっては、漆は漆。「自分で採った方が質は確かだし、当然、買うよりは安いからたくさん使える」と、どこ吹く風だ。そもそも鈴木健司が漆掻きに興味を持ったきっかけは、国産漆を塗りたくても高くて手が出ないという状況にあったからだという。そんな彼にとっては、自分で採った漆を使って漆器を作るというのは、当たり前の作業なのだ。

 現在、鈴木健司が注力しているのが誰の暮らしにも最も身近な漆器ともいえる「椀」だ。少し前までは多様な作品を手がけた鈴木健司だが、しばらくは椀にこだわりたいという。
「半年は山に入るから、塗りができるのも半年。いろいろ手を出して散らかすより、本当に良い椀をしっかり作っていきたい。手に取って口に触れる椀が漆の良さを一番語ってくれると思う。それに、俺はまだまだ未熟だからあっちゃこっちゃやっても駄目なの」と笑う。
 椀に塗る色も黒と朱のみ。黒は漆黒のごとく黒く艶やか、朱はどことなくワインレッドを思わせる瀟洒な色合いだ。ここに、鈴木健司は自身の中にある理想の漆の色彩を宿らせようと試みている。
「理想の漆を考えると、いっつも思い浮かぶのが師匠の谷口さんが塗っていた漆なんだよね。カチッと締まってて、艶やかで。そんな漆を塗りたいと思って、山でも工房でもずっともがいているんだよね。でもそう簡単にはいかないよね」
 谷口氏の作品を目の当たりにしたことがないので比較はできないが、鈴木健司の漆器には不思議な色気を覚える。その艶といい、深い色合いといい、確かにどこか生々しい。それはそう、あの夏の森で見る、刻まれた辺から滲み出る漆の佇まいそのものだ。
 朱と黒。二色の椀。現在の鈴木健司は、ただそれだけに自らの生い立ちも山での日々もすべて詰め込もうとしている。